★インタビュー企画「こどもあつめ」vol.4 的川 泰宣さん

約1年ぶりとなりました「こどもあつめ」。
こちらは、ゲストの「こども時代」についてインタビューしているこの企画、
今回は、宇宙好き、科学館に行くのが好き!そんな方必見!

JAXAの名誉教授であり、はまぎん こども宇宙科学館の館長でもある
的川 泰宣(まとがわ やすのり)さんです!

それでは、どうぞ!
******

的川 泰宣 さん MATOGAWA YASUNORI
はまぎん こども宇宙科学館 館長/宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授

《プロフィール》
はまぎん こども宇宙科学館館長、宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授。ミューロケットの改良、数々の科学衛星の誕生に活躍し、1980年代には、ハレー彗星探査計画に中心的なメンバーとして尽力。2005年には、JAXA宇宙教育センターを先導して設立、初代センター長となる。日本の宇宙活動の「語り部」であり、「宇宙教育の父」とも呼ばれる。

Q. 小さい頃は、どんなお子さんでしたか?
生まれたのが昭和17年1942年で、ちょうど戦艦大和が呉の街で建造中だったんです。僕はちょうど1歳ぐらいで、お袋からは「お前は戦艦大和を見ながら育った」っていつも聞いてました。
そういう背景で育ったもんだから、太平洋戦争のころの影響はだいぶ受けていると思います。
呉には最初、主にオーストラリアの兵隊が駐在していて、もう外人だらけだった。アメリカの子どもたちと、言葉はお互いに分からないのに仲よく遊んでたりしていました。だけど、(彼らは)缶蹴りだとか、そういうのを知らないわけです。考えてみれば当たり前なんだけど、「あいつら何にも知らない!」って思ったことをよく覚えています。「外国ったって、全然大したことない」って。

Q. 戦時中に幼少期を過ごされたということで、ご自身はどんな影響を受けましたか。
原爆が落ちた日には僕は広島の田舎に疎開してたので、原爆のことはよく知らないんですけど、お袋から聞いて、相当酷いことがあったということは知っていた。
原爆が落ちてしばらくしてから、兄貴が自転車で広島に連れていってくれて、太田川の岸辺で原爆の遺体がまだ片付いてない状態で、遺体が折り重なってる岸辺を見ました。で、しばらく呉の町に帰ってきてから、僕は覚えてないけど毎晩、うなされていたと。ショックだったんでしょうね。怖かったって感じのイメージです。
そういう経験から、やはり、平和とかに対する気持ちが友達に比べると異常に強かった、と小学校に入ってからよく感じましたね。

Q. はまぎん宇宙科学館の館長さんの挨拶の中で「人は人生において最も変わるのが平均して10歳頃であると言われている」と書かれていました。その10歳のころに、きっかけになった出来事はありますか?
きっかけ、というのはこれといってないんですけどね、小さいころ漠然と自分はどんな人間になるのか、ということを感じていました。自分自身は本当に世界中の人が幸せに生きるってことが一番大切なことだっていうのが、小学校の途中から湧き上がってきましたね。

Q. 的川さんの平和に対する思いを強く感じるのですが、ご自身の原体験がその考えに繋がっているのですか?
ちゃんと繋がっていると思います。
3歳のころに呉の町は空襲がありましたので、全部焼け野原になっちゃったんですけど、(自分は)お袋の背中に背負われて呉の広い通りを、背中で揺られながら走っていたのを覚えてますね。周りが熱かったことも。
当時、図書館が燃えたんですけど、その光景を覚えてて、そういうのは人生の中でたびたび思い出すシーンなんです。そういう事があったために戦争と平和についての思いがあって、平和志向みたいな考えになりましたね。「平和っていうのは待っててやってくるものではない、何か自分がやらなければいけない」という気持ちに繋がっていきました。
高校は広島に出たんですけど、生徒会みたいな活動を始めて、それはもうはっきりと平和運動に参加する(会)。その流れで、大学に入ってからも学生運動をずいぶんやりました。
今考えると、あのころ勉強してれば今、もっとまともな人間になってたんだろうけども・・・。

悔やんではいないけれど、その頃に作られた世界観や世界の見方は、大変大事なものだったと思っています。
「自分の一生の中に、社会のために生きる人間でないと、自分の価値として我慢が出来ない」というのが、どこかに色濃くあるのは、小さいころにできたものなんだと思っています。

Q.お父様が軍人さんだったとお聞きしましたが、印象的な出来事はありますか。
親父は海軍にいました。当時、アメリカ兵とかオーストラリア兵はジープで町の中を乗り回して、子ども達にチョコレートとかガムとか投げ与えるんです。そうしたら、みすぼらしいけれども、呉の子どもたちはそれを腹ばいになって拾って食べるわけです。そうした光景をよく覚えてますけど、なんかこう…いま思い出すとやりきれない気持ちですけど。うちはね、(親に)言われたわけじゃないんだけど、そういう事をやっちゃいけない雰囲気があって、僕は長いことやらなかったんですよ。
ところが、周りの子は本当に美味しそうに食べるし、美味しいものなんだろうと思っていました。
僕はある日、一回ぐらい良いだろうと思ってチョコレートを拾って食べたら、(チョコレートが)美味しいんですよね。で、びっくりしちゃって、ポケットの中に食べきれないくらい入れて帰りました。
あとでうちの中で、そーっと食べていたら親父に見つかって。 「何してんだ!」って言われておずおずとチョコレート出して、「食べる?」って聞いたら、バチーンってたたかれてびっくりしましたよ。
親父は大変穏やかな人で、アフターファイブで能をやるような人だったし、本当に驚きました。
親父に「ねぇ、チョコレートどうして食べちゃいけないの?」って聞いたんです。そしたら、親父が「それは日本人の矜持(きょうじ)だ」って言ったんですよ。その時は小学5年生くらいだったかな、矜持って言葉、分からないですよね。「矜持?」って聞き返したかったんだけど、怖い顔してて聞けなくてね。
それで、そのあとお袋に「ねえ、矜持って何?」って聞いたら「なんでそんなこと聞いてくるの?」って。
「こういうわけで…親父にチョコレート見つかって」って言ったら、お袋は説明しなかったんだけど、「あのね、”きょうじ”っていろんな言葉があるんだよ。お父さんが言ったのは、意味があると思うけど」、って言って、奥へ行って国語辞典持ってきたんです。母は家庭科の先生だったんですよね、さすが教育者だと思う。
それで、矜持って言葉を大変よく覚えています。おそらく小学校の4、5年で「矜持」って漢字をかける人は、なかなかいないと思うんですけど。

Q.小学生のときの印象的だった思い出はありますか。
小学5年生のとき、ヤクザの息子をそうとは知らずに殴り飛ばしたことがあってね。明くる日、授業中に担任の先生が教室に入ってきて職員室に呼ばれました。
行ったらヤクザが座ってるんですよ。なんでいるのかな、って思ったら、はっとね、昨日泣かしたやつのことを思い出して、これはひょっとしたら、困ったことになったと。
「昨日は俺の息子を可愛がってくれたそうだな」と凄みのある声で言われたんで、しどろもどろになって、元々向こう(の子)が悪いってことは確かなんですけど、懸命に理由を言いました。僕が言い終わったところで立ち上がったから「おっと、やられるかな」と思ったけど「邪魔したな」と言って出ていきました。
そういう事があったから、立派なヤクザっていうかね(陰ではいろいろやってたんでしょうけど)当時のヤクザってのは筋が通ってる。そういうところは、その時感じましたね。

Q.給食についての思い出はありますか?
中学に至るまで、脱脂粉乳はとにかくみんな嫌いでね。ただ、窓際の席にいると(窓の外に)捨てられるんですよ!先生も美味くないって知ってるから、それほどきつく叱らない。窓際って言っても3階建てで、みんな捨てるから、建物の傍の芝生が全部枯れるんです。先生が「お前らが何か捨てるものがあるために、芝生が育たないんだよね」って皮肉いうわけですよ。見事に本当に生えていないんです、そこだけ。

Q.好きだった教科・苦手だった教科を教えてください。
あのね、僕は少し不思議な子で嫌いな科目は一切ないです。
数学は他の科目に比べると大好きだったと思います。(数学は)他の科目に比べると、本当に覚えることが少ない。順序立ててやればいいわけで、こんな楽な科目はないと思っていました。
苦手だったわけではないけど、地理は行ったことがない所のことを覚えるので変だなぁと思っていました。
でも、教え方が違えば僕はきっと大好きになった可能性があると思ってるんですよ。
大事か大事じゃないかっていうのは、最初に接する人がどういう風に教えてくれるかっていうことに関係があるんだなっていう事がよくわかった。
宇宙の話でもサイエンスっていう全体の話でも、子供にどのように伝えるかってことで響き方が違うので、最初の出会いがものすごく大事だなということを感じました。

Q.お兄さんの授業を一緒に受けに行ったとか・・・?
小学校4・5年生でしょうか、兄貴の高校の授業ってどういうことをするのか見たくてね、ついて行ったことがあるんです。小学生が高校生の授業にいるって変じゃないですか、今だったら。先生は不思議に思っていたみたいだけど、「しょうがねえなぁ」って。
その日はちょうど理科の実験がある日でした。チューブの中で石と葉っぱを真空の中で落とす実験だったんです。見ていたら、石と葉っぱが一緒に落ちてきたんです!そのとき、もうびっくりしちゃってね。耳学問も何もないものですから、本当にびっくりして叫んだんです。3、40人高校生がいる中で僕が叫んだのを先生が見て、「お前らこれ感動しないか、このちびが一番感動しているじゃないか」って。そのことがすごい印象に残っていて、もう「ドキーン」としたような感動でした。
あらかじめ知ってる知識っていうのは本当ダメで、子どもの頃に接する自然科学の事柄っていうのは、いつも新鮮な驚きがある。そのような状態で受け止めないと、その後の自分の成長につながっていかないっていうのは、非常に確かな事だと思いますね。
「サイエンスコミュニケーション」という話がありますが、知識をつけるって言うことはあまり大したことではなくて、感動教えるって言うのかな。

Q.宇宙に関しては、子どもの頃から興味があったのですか?
大学に入ってからできた友達の中で、一級下に海部(かいふ)君って言う天文学の会長だった友達がいるんです。彼は、小さい頃、赤色白色って言う星の違いを考えていたら寝られなくなるって言う状態で、大学の専門を決める時には一も二もなく天文学を選びました。
僕は星を見ながら、あまりそういうことを疑問に思わなかった。
僕は星への距離が違うっていうのを耳にした時にびっくりしてね。シリウスとベテルギウスってものすごい違うところにあるんだと。ここから旅行したとして、シリウスまで20年ぐらい。そこからさらに何百年も行かないとベテルギウスに会えないとかそういうことを考えると、そのままずっと宇宙の間を縫って冒険していくみたいなそういうイメージがあって、宇宙とはなんか冒険みたいなもので繋がっていると思ったんですよ。
海部くんと2人で観望会行って一緒に見てると、星の好きな子が二人で見てるって状態なんだけど、子供を見ても「星好きな子」と(ひとくくりに)一緒にしちゃいけないね。
そういう、微妙なところの(興味の)ひだみたいなものは、小さい頃のはなかなか自分では(言葉に)できない。だから、そういう時に家族や教師が、どこかで気づいてあげるっていうことがあればその子はすごく伸びるんじゃないかなと感じます。

Q.おうちの方から、子供の時に受けた影響はありますか?
親父から得たより、お袋から得たもののほうが大きい。
男の子っていうのはお母さんのほうが大好きなのね。家庭科の先生をやっていて、家庭料理で一番好きだったのはカレーライスですね。本当に好きだった。だから誕生日と言うと、お袋が作ってくれるカレーライスが楽しみでした。

Q.失敗したとき、壁にぶつかったときはどのように解決していきましたか。
(自分は)あまり深刻にならないタイプなのですが…テニスをやっていたときは、壁を乗り越える時の力っていうのはみんなで生み出していかないと駄目だと思いました。リーダーがしっかりしているってもちろん要件としては大事だけど、その力が響いていてみんなの力になっていかないと結局は総合力になっていかない。
そういうメカニズムみたいなものは、スポーツの中から感じ取ったと思います。
「団体戦」て言葉の規模を広げていくと、最も大きな団体戦がおそらく平和をつくることなんですよね。
世界中の人の力で、みんなが幸せにできる社会を創るっていうのが多分人類が持ってる一番大きな団体戦だと思うんです。そういうことが今の時代・世の中になると特に求められていると感じがします。

宇宙なんかもそうですけど、本当の意味で宇宙でやってる仕事というのは、全ての人に役立つという風にできないと、それは本当の団体戦に勝ったことにならないと思います。
みんなのプロジェクトとして立ち上げる場合は、発展途上国あるいは戦火の中にある国も含めて地球上のみんなが参加できるプロジェクトとして、みんなが協力して、戦争なんかやってられないよねっていうくらい動機づけのしっかりしたものを作って、初めて宇宙が世界に貢献することになるんじゃないかなと思います。
困難があった時に乗り越える力っていうのが、自分の力だけでなんとかやろうっていう意思の力とかではなくて、どんな人にも頼って、みんなの力で乗り越えていこうっていう、そういう気持ちが大事なんだろうなって思います。

テニスから学んだ団体戦の喜びとか意義とかそういうものは、すごく自分の仕事の動機付けにもなって。
大きな目標を掲げてやるということももちろん大事かもしれないけれど、そうではなくて、テニスコートでその日何をやるかなんですよね。
「その日に何をやるか」
これから1時間何をやるか、非常に細かい身近な目標にしっかり重点を置いて、いつもいつも重点を置きながら伸びていく。そういう心がけがないと人間はたゆみなく進歩することができないという感じがありました。

Q.座右の銘をおしえてください
私のお師匠さんが糸川英夫って人で、本当に天衣無縫な、生きたいように生きた人なんです。
その方の「人生で最も大切なことは逆境と良き友である」っていう言葉ですかね。
座右の銘というのは特にないけれど、一番思いだす言葉はあの言葉ですね。
今は、本当にそうだと思って、非常に胸に残っています。

・・・・今の子ども達にメッセージをお願いします・・・・
自分の関心があるものを、早く発見して欲しいっていうことですかね。それはあまりお金儲けようとか出世しようとかではなく、自分の心の中に本当に何が一番好きなのかっていうのを抱きしめて、それで進路を選ぶべきですね。
高校から大学に行く時にあんまり嫌いな科目がなかったので、理科系か文化系かすら決まらない状態で、親父は法学部がいいんじゃないかって言ったんですよ。僕は弁護士もそう悪くはないかなという気はしたんですけれども、親父に理由を聞いたら「潰しがきく」って言ったんです。それで、僕は法学部はやめたんですよ。そういう生き方はしたくないなって。
お袋に聞いたら、医学部がいいって。悪くないですよね、お医者さんって絶対に役に立つ仕事だから。念のためその動機を聞いたらね、「生活が安定する」って。それで医学部もやめようと思ったんです。二人とも(正直に理由を)言わなきゃいいのに…(笑) 最後は理工系ブームもあって、理科系に進みました。
やっぱり大事なことは、本当に自分の好きなものが見つかるまでは人の言った動機で決めちゃだめだ、ということです。うまくいかなかった時に人のせいになっちゃうじゃないですか。

一生懸命、自分の好きなものを早く見つけるということが大事ではありますが、選択肢を増やすためにはいろんなことをして遊ばないと駄目ですね。
勉強ばっかりしてると見つからないですよ、知識ばっかり増えても感動はないです。
スポーツもそうですけれど、いろんなことにチャレンジして自分の大好きなものを掴みとれば、後悔なく生きられるんじゃないかと思います。

*****

一番の好きを抱きしめて…素敵な言葉ですね。

的川さん、ありがとうございました。

文:あべまり