◆インタビュー企画「こどもあつめ」vol.6 本田隆行さん

わくわくキッズのインタビュー企画「こどもあつめ」

第6回目のゲストは、科学コミュニケーターとして幅広く活躍されている

本田 隆行(ほんだ たかゆき)さん です!

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本田 隆行  HONDA TAKAYUKI

《プロフィール》

理学修士(地球惑星科学)。地方公務員事務職・国立の科学館勤務を経て、国内でも稀有なフリーランスの科学コミュニケーターとして活動中。 科学関連の展示プランニングや実演の実施・監修、大学講師やイベントファシリテーター、行政との連携、執筆業など何でもこなす。 著書・監修など多数。

サイエンスコミュニケーター 本田 隆行 (sc-honda.com)

Q.小学生のときはどんなお子さんでしたか?

ふとっちょです! もう「ザ・健康優良児!」です。食べるの大好きで、動くのは大の苦手。幼稚園の卒園アルバムには、食べてる写真しかありません(笑)。5人兄弟の長男で、年子の妹と4つ下の妹、それと8つ下に双子の弟がいます。弟たちは、(自分が)小学校2年生のときに生まれているから、世話してたイメージが強くて。僕はどちらかというと父母と4人の兄弟の間の立場、生まれた頃からずっと「おにい」なんですよ。親からも「お兄ちゃん」って呼ばれてたからか、自分の名前を呼ばれてもピンとこなくて。(自分の名前に)あんまり愛着がありません。家の中では黙々とテレビ見たり本や新聞読んだり、絵を描いたり。小学5年になるくらいまでは、とにかく家の中で過ごしてました。でも、きっと外から見ればステレオタイプの「お兄ちゃん」だったんじゃないですかね。

それなりに、なんでもそつなくこなすのは得意でした。家に帰ると妹と弟がいるので、カッコ悪い姿は見せたくないというか…「ちゃんとした兄貴でいたい」っていう気持ちが強かったのかもしれません。宿題ちゃんとやるとか、家の事をちょっと手伝うとか…そんな感じだったんで、大崩れせずに育つことができました(笑)。

Q.学校の中では、どんな遊びをしていたのですか?

高学年になるまでは、休み時間にずっと自由帳に絵を描いているのが好きでした。いろんな図鑑を見るのが好きだったので、図鑑に載っていたものを描いてた気がします。活発にクラスの中でコミュニケーションをとるタイプではなかったですね。「社交的」という言葉からは、ほど遠い。友達との距離の取り方が下手だったんです(笑)大人しくて運動できないふとっちょって、基本的にいじられがちでしょ? 話が面白いふとっちょは、重宝されるんですけど。

そうそう。ある日、雨の日に教室の中で男の子がボールを投げてて、自分は机で絵を描いてたんです。その時、僕にボールがあたって、描いていた線がガリッて歪んでしまったことがあって。男の子は「やってもうた!(やってしまった)」と思ったみたいですが、僕は「今の(ボールが当たったこと)で、描いてた線が良い感じになった!よかったよかった」って言って怒らなかったらしいんです。これ、今でも変わらないんですけど、人に怒れない。感情を表に出せないんです。怒っていても「僕は怒っている」という表現ができない。その後、何か言われるのが怖いんですよね。「いやだ、やめてほしかった」って自分が言っても、相手から「うるせぇ!それが何だ!」って言われたら、怒ったはずなのにさらなるショックを受けてしまうでしょ?それが嫌なんです。そうなるくらいだったら「別に1ページ新しく(めくって絵を)描けばいいや」って、当時はきっとそう思ったんだろうな。

そのくらい人に怒らない、感情を出さない、動かない、めっちゃ食べる(笑)という子どもでした。おかげでニックネームが「ぞうさん」とか「マンモス君」。だから、マンモスが主人公の漫画、描いてましたよ(笑)。

Q.小学生のころの心に残っている思い出を教えてください。

小学5年生くらいの時、円周率が教科書に登場したんですよね。コラムに「3.14には終わりがない」と書いてあって、200桁くらい載ってたんですよ。そこで、給食のデザートをかけて誰が1桁でも多く覚えられるかって競争が始まりました。結局僕が173桁くらい覚えて、みんなの冷凍ミカンをもらって。で、お腹こわしたっていうことが…(笑)。

小学校も後半になると、距離の取り方が分かってきたというか馴染んできたというか、友達がちょっとずつ増えて来たんです。体の動かし方を覚え始めた頃から、サッカーとかドッジボールとかバスケとか、男の子遊びができるようにできるようになったんです。そのくらいから男の子の友達も増えました。

あ、そうだ。僕の小学生の時の代名詞が「半袖」でした。僕は年中半袖で、友達に年中半ズボンの子がいて、どっちが最後まで(半袖または半ズボンで)耐えられるか「半袖vs半ズボン」の戦いが始まりました。結局、寒い冬のある日、友達がジャージの長ズボンはいてきたんですよね。僕はずっと半袖だったんで、僕の勝ち。でももうなんだか引くに引けなくなって(笑)。結局、高学年で一回もTシャツ以外の物を着ず…僕、卒業式の写真半袖なんですよ(笑)中学校に入ると制服があるでしょ?冬服だと長袖なんですけど、あまりにも長袖が嫌すぎて中学校入る前に中学校に「入学式から夏服着たらだめですか」って聞いたら、もちろんダメって言われました。当たり前ですよね(笑)。

小学5、6年生で、いろんな友達とやり取りする楽しさを知りました。あいかわらず僕は我を出すのが苦手でしたけど。本当にこれは今でもそうなんです。巻き込まれるのは大好きですけど、人を誘うのは大の苦手なんです。その人はその人の時間で生きてますよね。僕が誘ったことでその時間の邪魔をしたら申し訳ないなって思っちゃって。だから電話かけたり、友達の家にピンポンして「遊ぼ~」ってのができなかった。今でもそうです。自分から「飲みに行こうぜ」って言えない(笑)。今でも、自分からは友達に声をかけないので、相手が忙しくなると全然会わない。だから、できるだけ人に巻き込まれるように動いてます。

(お話上手な本田さん、インタビュー中もところどころ笑いがおきました)

Q.どちらかというと引っ込み思案だった本田さんが、人前で話せるようになったきっかけはあるのですか?

きっかけは小学校の児童会(中学などの生徒会のようなもの)です。小学5年生の時に周りの子から推薦されて立候補したんですけど、結局その時は落選してしまいました。選挙の時に人前で話すのはめっちゃ恥ずかしかったんですけど、いざ終わってみるとね、負けると悔しくて。小学6年生で、今度は自分から会長に立候補して受かりました。その頃から「人前で話すのって、ちょっとおもしろいかも…目立つのってちょっと楽しいかも…」って思い始めて。

その後、会長をやったことがきっかけで中学の入学式でも「新入生の言葉」を読むことになって、あの緊張感は(自分にとって)もう楽しかったんですよね。入学式の前の日に校長先生とだけリハーサルして、で、当日はド緊張して礼するの忘れていきなり話し始めてしまったんですけど。でも、それも含めて人前で注目を集める楽しさを次々に味わってしまった。ゆえに、いつの間にか前でしゃべるのが楽しくなっちゃって、人前に立つ抵抗がなくなった。

でも、ただ目立つだけってのは嫌なんですよね。だんだんと皆の中にとけこんで、いつの間にかみんなの中にいても違和感がないようになる、ってのがいい。「そういえば、いつから友達やったっけ?」「分からへん(笑)」みたいなのって、理想形ですね。

Q.好きだった給食はありますか?

お腹壊しましたけど、冷凍ミカン!(笑)いや、基本、何でも食べるんですよ。大兄弟だったので好き嫌いとか言ってたら食べる物ないですから。でも強いていえば…マグロの南蛮漬けとか。甘辛いのが好きでした。あと、わかめごはん。わかめご飯は、今でも大好きです!

Q.苦手だった給食はありますか?

食べられないものはほとんどないですが、小学校のころまで苦手だったのは高野豆腐。触感が…苦手でした。ジワって出汁が出てくるのが「スポンジ?」って思っちゃって。でも大きくなってから食べたら「うまいやん!」ってなって、それからは大好きになりました。

Q.好きだった教科・苦手だった教科を教えてください

好きだったのは図工です。工作したり絵を描いたり、好きでしたねぇ。

苦手だったのは…体育かなぁ(笑)。でもそれも、小学校低学年の頃までです。高学年になると動けるデブになりましたから。特に縄跳びは得意で、三重飛び、やってましたね。身体160cm台後半で、体重70kgくらいあったやつが、(身体を)ゆっさゆっさって飛んでました(笑)。

Q.失礼ですが、そのような大きな体から今のスリムな本田さんになったのは何があったのでしょうか?

ちょうどスラムダンク世代なもので、中学校で周りが続々バスケ部に入ったんです。すると僕の名前もいつの間にか書かれていて(笑)。…でも僕どう考えたってポジションが「安西先生」なんです。バスケ部の中に、1人だけ安西先生が混ざってる!みたいになりますよね。もちろん体力0なもんで、先輩からしごきの標的ですよ。「とにかくずっと外周走ってこーい、腕立て伏せしろー、空気イスやー、はいできなかったからさっきの倍なー」ってな具合で。しごかれすぎると、人ってご飯が喉を通らないんですよね。お弁当食べた後しごかれると気持ち悪くなっちゃうんで、お弁当の量もだんだん減っていき…。親方弁当(大きなお弁当)だったのが、いつの間にかOLさんが食べるヘルシーなお弁当みたくなって。それが続いたら、夏までに20kgちょっと減りましたかね。急激に体重が落ちたもんで、太ってたころの体重を支える足の筋肉だけは残ったんです。体のお守りを全部脱いだ感じになったので、やたらジャンプ力がついちゃって。おかげでバスケ部の中では特にジャンプボールで重宝されましたね。しかし、よくやめなかったな自分…って思います。よく耐えた。

でも、中学に入って急に痩せた者で見た目が変わりすぎて、中学1年生の夏休みに田舎に帰った時、おばあちゃんが僕って気づかなくて。「誰だい?」って言われて「隆行だ!」って言ったら、「ちがう!隆行はそんなんじゃない!隆行はもっと肥えてよぅ食べる子だ!」って(笑)

Q.印象に残っている先生はいますか?

3、4年生の時の担任の女の先生がめちゃくちゃ優しい人でした。学年が上がって担任が変わった夏休み、その先生がご家族で出かけた先で交通事故にあって亡くなられたんです。急にいなくなったことにもびっくりしたし…会える人には会えるうちに会って、仲良くできる時間はさんざん仲良くしておかないと、会えなくなるのは急だ、っていうのはその時感じましたね。あと、(ご家族で出かけられたときの事故ということで)先生にプライベートがあるっていうのも、その時実感しました。

他には、キャラクターの濃い先生はいっぱいいましたね。小学4年生のときにクラブ活動で科学クラブに入ったんですけど、その先生が本当に(実験を)面白そうにする。でも、(クラブの子供たちは)誰もついていってなかった(笑)すごくニヤニヤしながら炎色反応とかやってたのを覚えてます。なんて冷静な4年生や(笑)。

Q.子どもの頃から科学に興味があったのですか?

幼稚園のころに『自然のアルバム』っていう自然系の生き物やら星やらが載っている本をずっと借りてました。僕は物語が苦手で、フィクションに入り込めないタイプだったんですね。みんな読んでたような『ズッコケ三人組』とか、まったく読めなかった。

逆に図鑑とか写真とかリアルなものが好きで、特にかこさとしさんの絵本で「宇宙」「地球」「海」などの大判絵本にめちゃくちゃハマりました。それで、田舎に帰った時に親戚のおじさんおばさんに、宇宙の絵本で覚えたまま「あれは、○○座だね」なんて話てたら、やたら喜んでくれた。多分それが科学を伝える楽しさを知った入口でしたね。僕は、自分が知るのが好きだっていうよりは、他人と知を共有する楽しさの方を先に覚えたんだと思います。「次、田舎に帰ったときにまた話してね」って親戚が言ってくれるから、また情報を仕入れては、共有するわけですよ。1人で楽しむって感じではなかったです。科学に興味はあったけど、科学のことを自分だけで楽しむっていうよりは、広げられる人がいたからうまく沼にハマれたなって、それはすごく思います。

加えて、そのころ時事的な話題でも宇宙とか地球に関する話題が豊富でした。小学校2年生のときに日本人で初めて秋山さんが宇宙に行き、雲仙普賢岳の噴火や、毛利衛さんが宇宙にいったのが小学4年生のとき。そういうニュースに年1回くらいふれていたのも(科学に興味を持つうえで)大きかったと思います。科学の中でも地学、スケールの大きいもの好きだったのも余計に拍車をかけたのかも。

Q.子どもは何か習い事はしていましたか?

僕は習い事は一切やってませんでした。周りの子は習い事や塾に行く子も多かったですけど、自分は家に帰ったら、もう勉強はしたくなかった。兄弟5人の団地暮らしだったので、金銭面の余裕がないことにも気づいてます(笑)。4人も下にいるし自分ばかりにお金かけるようなことは言ってられんな、と。なので予備校も塾も、一切行きませんでした。自分にはこう言い聞かせましたよ。「周りはお金をかけて賢くなって、高校・大学にいく。でも、学校でもらった教科書と参考書だけで同じ高校や大学に行けたら、すっごいお得やん!超安上がりやん!」って。普段の定期テストで塾に行っている人よりも得点が良かったら、めっちゃ得した気分になってました(笑) すげーコスパいいやん!って。大学受験も私立は受けたところで行けないってことで、受けませんでした。親には、その分を妹や弟に回してくれって言って納得してもらって。

結局、小学校から高校まで公立、大学が国立でそのあと公務員になったでしょ?親からしたら「なんてコスパの良い兄貴」だったはず。だったはずなのに、安定したと思ったら、大どんでん返しですよね。「公務員やめて、東京で任期付きの仕事しまーす」って。「なんでやねーん!」ですよね(笑)

Q.その裏には並々ならぬ努力があったのですね。

あったんでしょうかね(笑)でも、その分失ったものもあります。我を通すとか、わがままになるとか、そういった面は幼少期のどこかにおいてきました。自分を出せる人が羨ましいって思うこともあります。いつも遅刻してるやつが1回遅刻しなかっただけで褒められるとか、世の中って不条理だなって思ったりして。でも、見てる人は見てるだろうし、だんだんと生き方に無理をしないようになってきました。昔はいつもすごい気を張っていて、人からしっかりして見られたい気持ちが強かった。でも30歳超えて科学未来館に転職した辺りから一気に肩の荷を下ろしたというか。昔は、宅配便の人に寝ぐせを見られたくなかったので朝必ず髪の毛を整えて、着替えて、すぐ外に出られるような状態じゃないと人と会えませんでした。友達と泊りに行くのも苦手だったんです。一緒に風呂入るのも抵抗があったし、寝ている姿も見られたくない。油断している姿を人に見られたくなかったんですね。今となっては、なんであんなに気を張ってたんだろう…って思いますけど(笑)今やすっかり日常生活から脱力感満点ですよ(笑)まぁ30歳超えてから急に脱力できるようになったのは、今までの経験があったからだろうな。外から自分を俯瞰できる能力を手に入れたっていうのが大きかったですね。

Q.座右の銘をおしえてください

あんまり座右の銘を考えずに生きてきた人間なんですが…「欲張ることは良いことだ」という言葉は、よく言いますね。欲張ることに抵抗がある人も多いかもしれませんが…。

例えば、塾に行かなくちゃいけないから野球やめますとか、受験があるのでピアノやめます、とか、すぐ2択の選択をしがちですよね。でも、「そんなにすぐに1こに絞らなくてもよくない?」っていう気持ちがあります。やりたいことが2こあったら2こやればいいし、2こできないと思ったら力をかけるバランス変えればいい。やめたからってもう二度とできないわけでもないし、欲張れるだけ欲張ってみて、欲張れないなって思ったときに手の放し方を変えたらいいんじゃない?って思って今まで生きてきました。

自分の心の声には正直になった方がいいというか、特に知的好奇心には制限かけなくていいんじゃない?って、ずっと思っています。やりたいことは、どん欲に。塾に行きながら野球ができる方法を探せばいいし、野球とサッカーどちらかにしぼらなくても良いし、やってみてからウエイトのかけ方を考えたらいい。「今じゃなくてもできることは、後回しにしてもいいじゃん」って。その分、自分の選択には最後まで責任を持つこととセットですけどね。

中学校の時にしかできないことは、中学校の頃にやっておかないともったいないし、高校の時も然り。大学生になってからできることは、大学生の時にやりゃいいと思っていました。だから僕高校生の時にバイトはしなかったんですよ。その分、高校生のころは地域の「高校生まちづくり」ボランティアをしてみたり、友達の家業の大工の手伝いを経験させてもらったりしました(笑)大学の時も、庭師の手伝いのバイトとか、きっとこの先やることないだろうな、ということばっかりやっていましたね。やってみないと分かんないことも多いし、今後それができる保障はないんだったら、今やっておかないともったいないと思っちゃって。

Q.本田さんはいつもどこか自分を俯瞰(ふかん)してみているようですね。

それは小学生の頃からずっとそうです。友達の中で、僕はどこにいたら一番バランスがとれるんだろうっていうのを考えていました。出すぎて嫌がられるのもイヤ、引きすぎて忘れられるのもイヤ、教室の中だったらどのポジションに自分を置くのが一番都合が良いかと考えていました。

家族の中でもそうですね。「妹が今こうだから、親がここにいるから、僕はこういう立ち振る舞いをするのがよいだろう」って。常に人の中で生きているので、僕が何したいじゃなくてこの中で自分がどう振る舞うのが一番いいのかっていうのをずっと考えてたのが、今の思考のクセになってると思います。だからこそ、人と絡まなくても良いときはわざわざいかない。一人でいれる時は「一人でいっか」っていう風に思っています。だから、2・3週間人に会わなくても全然平気。引きこもれるんです(笑)

陰キャといえば、そうかもしれません。「陽」を求められたら陽になれるし、求められないのであれば無理に陽にならなくていい。昔は、自分のキャラクターが不安定なことが嫌で仕方なかったですけど。「自分はどういうキャラクターなんだろうか」って、迷子になっちゃって。時に陰キャ、時には陽キャ。それが自分でわかっちゃってるんで嫌だったんですよね。でも、嫌だった自分のテクニックが、今では仕事として活きているので、そういう意味では、今の仕事は(自分にとって)良い仕事見つけたなって思います。

自分が「嫌だなぁ」と思っている部分も個性じゃないですか。その個性が生かせる場所っていうのが、どこかにある。それは今見つからないだけで、そういう場所がなかったら作ればいいし、無理して周りに合わせる必要もない。ただ、「そりゃ悩むよね」とは思いますけどね(笑)。

今の子ども達にメッセージをお願いします。

ぼくは小学生のころ、明るいタイプではなかったので、自分がどんなこと言われると嬉しかったかな…。あ、「無理すんな」ですかね。無理してまで周りに合わせなくてもいいし、無理してまで自分を変えなくてもいい。無理してまで人と仲良くなろうって自分を責め立てなくていい。楽しいことがあったら無理にならない程度に楽しめばいいし…何でも力みすぎると良いことないです。楽しいこともツッコみすぎるとだんだん苦しくなってくるので、楽しいことは楽しい状況をできるだけ長く楽しめた方がいい。そうなると、無理しないっていうのが良いです。リラックスするというか、力まない、できるだけ無理しない。頑張らないという意味かって言ったらそうじゃなくて、無理せず頑張ることもできる。自分が「無理だな、苦しいな」って思ったら一休みしたり、そういう自分を「今、無理してるな」って思ったりするだけでも変わると思います。無理しないって大事ですよ。

(最後は楽しいポーズで、インタビュー終了)

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 本田さん、ありがとうございました😊

現在の華やかな舞台でのご活躍、また実直に科学コミュニケーションを追及しているお姿は、本田さんのこれまでの積み重ねがあったからなのですね。

子どもたちへの温かなメッセージもありがとうございました。

わくわくキッズ 阿部 麻里

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★「こどもあつめ」vol.5 鳥井雪さん★

わくわくキッズのインタビュー企画「こどもあつめ」

第5回目のゲストは プログラミング教育絵本「ルビィのぼうけん」の翻訳者であり、自身もRailsプログラマーの 鳥井 雪(とりい ゆき)さんです!

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鳥井 雪  TORII YUKI

《プロフィール》

リンダ・リウカス著のプログラミング教育絵本『ルビィのぼうけん』を翻訳、プログラミング教育必修化にむけての一助となる。女性にプログラミングの技術を解放する世界的ムーブメント「RailsGirls」の、日本でに普及にも尽力しその功績を認められ、2013年楽天テクノロジーアワード ルビー賞受賞。

Q.小学生のときはどんなお子さんでしたか?

教室の端っこの方で本を読んでいるような、おとなしいタイプの子どもでした。父親の影響でミステリーが好きで、小学校高学年のとこからずっとミステリーばかり読んでいました。江戸川乱歩やルパンにはじまり…定番の赤川次郎も読んでいましたね。

母親が働いていて、父親は単身赴任で家ずっといなかったので、かぎっ子でした。学校から帰ったら、とりあえず本を広げていました。楽しく読んでいたらいつの間にか日が暮れていて、辺りも暗くなっていて、母が真っ暗な部屋を開けてびっくりする…ということをよくやっていました。

「ゆきちゃん、どうして電気つけないの?」と言いながら、電気をつけてもらうのが好きでした。今思うと好きなものに没頭していたのだと思います。

Q.好きだった給食はありますか?

それが思い出せなくて…(笑) 給食は私たちの時代あまりおいしくなかったんですね…ぎりぎりコッペパンは好きでした。パンをよく噛んでいると甘くなる…というのが良かったんだと思います。ときどき「オムレット」という、ふんわりした生地の中に凍らせた生クリームがはいっているのは、好きだったと思います。

甘いものだと「安定して美味しい」という感じでした。

Q.苦手だった給食はありますか?

今でもマヨネーズが苦手で、それがはいっているものは軒並みダメでした。でも残したらダメな文化で、最後まで食べなくてはいけなかったので泣きながら食べた思い出があります。「大人になるとマヨネーズを食べなくても良い」というのが、大人になって良かったと思うことです! 嫌いなものは食べなくても大丈夫、食べるものは最初から選べる、大人になると楽しいよ、というのを伝えたいですね(笑)

あとはチーズがすごく苦手で、チーズのことをずっと嫌いだと思っていました。でも大人になって食べてみると、これは美味しくて「もしかして給食のチーズが美味しくなかっただけなのでは?」と恨みに思っているところです(笑)

まあ、大人になって味覚が変わった…というのもあると思うので、何もかも給食のせいではないと思います。

今の子どもの給食の献立を見てみると「結構美味しそうだな」と思ってみています。

Q.好きな教科・苦手だった教科を教えてください

好きな教科は間違いなく「国語」です!国語は話を読むのが楽しくて、3つ上の兄の教科書も国語だけは勝手に読んでいました。新学期にもらった国語の教科書の話を全部読んで、足りなくなったので兄の教科書を読んで…という感じでした。完全に読書の一環ですね。物語文も説明文も分け隔てなく、楽しく読んでいました。

私は本当に文系だったので、中学校からは数学が苦手になっていくのですが、小学校のときは、特にそういったことはなかったです。算数のつるかめ算は、解くのが楽しかった覚えがあります。音楽はあまり得意ではなかったような気がします。私、音痴なんですよ…(笑)だからその時は気づいていなかったのですが、ほとんど外れた歌を歌っていたような気がします。頭でっかちだったんですね…。

中学・高校は、国語の派生の古文と漢文、英語が好きで、本当に「文章」というか、「テキスト情報」が好きな人でした。

Q.本を読む、文章を読む魅力について教えてください。

自分と切り離した新しい世界というか…本の中にある世界に浸れるということが、自分にとって良いことでした。没入感がすごいんでよね。でも、自分が(本の中の)主人公になるという感覚ではなく、映像を見ているときのような、そこに展開している世界を観客として楽しむような感じです。まあ、ミステリーは(自分自身に置き換えて)共感して読むようなものではありませんからね(笑)

Q.本が好きで自他ともに認める文系の鳥井さんが、プログラミングのお仕事をするきっかけは何だったのですか?

就職するときに、ベンチャー企業の営業職を受けたのですが、面接で「この子、営業に向いてないのでは…」という空気が流れていました。その場で技術職の責任者の方と話して「では、うちの技術部にきなさい」と、技術部で採用されました。それから(プログラミングについて)勉強したんです。

それまでプログラミングの「プ」の字も知りませんでした(笑)

文系って、わりとプログラミングに向いてるところがあるなと思っています。コンピューターって融通がきかないんですよね。プログラミング言語という、一つの表現にたった一つの意味しか持たない厳密な言い方で、ただしく指示しないと思った通りに動いてくれない。けれど実際は、それを作りたい人間はあいまいな人間の言葉で考えて、人間の言葉で話しているんです。

プログラマーは、そんな風の人間のふわふわとした言葉を聞き取って整理し、抽象化して、コンピューターに教えてあげる。そういう仕事です。そういった意味では、(人間とコンピューターの)橋渡しのイメージがあります。文系というか、言葉が得意な人は(プログラミングに)向いていると思います。

この辺りはあまり注目されないのかもしれませんが、コンピューターを使いたいのは人間なので「人間がどういう風に使いたいか」を考えることも、すごく大事なところだと思います。

(質問:「想像力」ということですか?)

想像力が大きすぎるのもあまり良くなくって、勝手に相手の気持ちを忖度して作っちゃうとずれる時もあるんです。ある程度形になったら「こういう感じですか?」と(クライアントさんに)すり合わせていくのが大事かな、と思っています。結構コミュニケーション能力もいるんです(笑)

Q.印象に残っている先生はいますか?

それは良い印象と悪い印象とどちらでしょうか…?(笑)

実は私、小学校6年間で2人の先生にしか担任されていないんです。1~4年生はベテランの女性の方で安心して過ごしていました。5・6年生は新任の男性の先生でした。こちらも反抗期ということもあって、体育会系の「みんなで一緒に遊ぼう!」という先生と、全然そりが合わなくって…(笑) 大変だったなぁという思い出があります。

「みんなで遊ぼう時間」というものがあって…週に3回くらい休み時間にみんなで遊ぶ時間が定められているんです。この時間は、クラスみんなでドッチボールやけいどろをやらなくてならなくて。けいどろはわりと好きだったんですが、強制されてやらされるのが嫌いでした。だから、その時間は仲が良い友達と絶対見つからないような場所でずっとしゃべりこんでいました。新任の先生には、扱いにくい子供だったと思います(笑)

左:鳥井さん 右:あべ

Q.今後のインターネットと子ども達の関りについて教えてください。

小学生だと先生や教室の雰囲気が、自分の生活の中で(割合が)すごい高いじゃないですか。大人だと、1つのところで嫌なことがあっても、うちに帰れば大丈夫、友達と話していれば大丈夫、といくつか基地がと思うんです。でも小学校で嫌なことがあったら、家に帰ってもずっと考えてしまう…私はそういうタイプでした。だから「そこだけが世界じゃないんだよ」と、自分の子どもにはいろんな基地を作ってあげたいと思います。

現在インターネットの中は、閉ざされたコミュニケーションの場になっているようにも感じます。クラスの仲間内のライン…みたいに。インターネットとの付き合い方によって、自分の世界を広げることもできるし、よりクローズドになっちゃうこともあると思います。上手な付き合い方を色んな子に知ってもらって、安全に自分の世界を広げる方向に進んでほしいと思います。

Q.挫折したり壁にぶつかったりしたことはありますか?

いくらでもあります。そもそも私は正規の就職活動をしていなくて、就職シーズンが終わってもずっと本屋のバイトを続けていた時期もあります。順風満帆な人生ではないんです。自分が全然やると思わなかったプログラミングを始めたくらいなので、人生に全然計画性がないんです。

プログラミングを始めた時も、最初は本当に何も分からなかったです。英語は読み書き位はできたので、インドの開発会社の外注管理などをしていました。その時は、インターネットやプログラミングの専門用語が全然分からなくて、インターネットで調べました。手探りでしたが、その時の環境もおおらかで良かったです。

「やってみたらおもしろくて、いっぱいやってた」という感じでした。そんなにたくさん苦労しました、という感じではないんですね。多分、苦労は周りに掛けていたんだと思います。

その世界のことを少し知ると、今まで見えなかったところが、視界が開けるように少し見えていきます。少しずつわかっていくにつれ、自由になれる感覚があるんです。知れば知るほど、まだ自分の目の前にまだ知らない広い世界が広がっていくのが分かって。しかもプログラミングは自分が作ったように動いてくれるという確かな手ごたえがあるんですよね。(プログラミングを)やると、ちゃんと成果として目に見えるみたいな楽しさもあって、いつの間にかここまできちゃった、という感じです。

プログラミングに使う「ふわふわってしたものを整理して抽象化してまとめる」という考え方の癖をつけると、困ったときに「ちょっとずつやっていこう」という気持ちが起こります。そういった意味で(私は)わりとみんなにプログラミングをやってほしいタイプです。

(翻訳された)「ルビイのぼうけん」には、「手に負えない問題は、たいてい、小さな問題があつまってできている」という文言があります。「小さなことを組み合わせていくことで、大きなことができる」というのも、プログラミングの楽しさの1つなんですよね。

Q.ご両親から受けた影響はありますか

ものすごくあります。母は図書室の司書だったんですが、私の読書経歴には父が影響を及ぼしています。うちに本の部屋があって、本棚いっぱいにミステリー本がありました。父は単身赴任をしていたので、帰ってくるときに漫画も含めてものすごい量の本を抱えて持ってきてくれるんです。それをかたっぱしから読んで、その感想を伝え合うというコミュニケーションをしていました。それはすごく楽しかったです。

母は、文学少女タイプだったので、もっと文学っぽいものを読んでほしい空気を出していましたが…(笑) それでも「本を読むのが当たり前」という環境にしてくれたのは、母親のおかげだと思います。反対に、兄は活動的であまり本を読むタイプではなかったので、人間て不思議だなぁと思います(笑)

Q.座右の銘を教えてください

座右の銘、全然思い浮かばなくて(笑)

好きな言葉でいうと、(先ほど本の文言ででてきた)「大きな問題は、小さな問題に分割できる」ですね。

組み合わせる楽しさもあるんだよ、というところも知ってほしいです。

Q.プログラミングというお仕事とご自身に関して教えてください

もう十数年プログラマーっぽい仕事をしていますが、まだ飽きたことがないので楽しいんだと思います。

私は割と飽きっぽいところがあるので、ずっとやりたいことをやれているという実感はあります。

******今の子ども達にメッセージをお願いします。*****

私は、子どもの頃に将来の夢を聞かれるのがすごく嫌いでした。子どもだから世の中のことを分かっていないのに、その分かっていないことについて、この先のことを答えろというのがすごく嫌だったんです。

「まだ判断材料無いのに何言わせるの?」みたいな。

当時思っていた通り、今はまるで予想もしなかった職業に就きました。将来のことを頑張って考えても絶対分かるようなことではないので、今は自分の好きなことに集中して、自分の世界を広げられるよう、楽しく過ごしてくれるといいなと思います。あ、将来のことに目を向けることは大切だと思いますよ。でも、今の持っていることだけでは決まらないんだ、ということも感じてくれるいいですね。

最後は素敵な笑顔でパチリ。

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 鳥井さん、ありがとうございました😊

現在のご職業からは意外な?子ども時代の貴重なお話聞かせていただきました。

現代の子どもたちへの前向きなメッセージもぜひ多くの方にふれていただきたいですね。

わくわくキッズ 阿部 麻里

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【11月28日】わくわくキッズオンライン「針をさしても?ふくらむ風船」

こちらは11月に行うオンライン実験教室のお知らせです。

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わくわくキッズオンラインイベント
「針をさしても⁉ ふくらむ風船」
■日 時   11月28日(日)  13:30~14:30
■実 施   zoom (初めての方も大歓迎!)
■対 象  年長さん~小学生
■参加費  1,500円 (材料郵送希望の場合は2,500円)
■定員    10組  (兄弟参加OK) ※先着順
■講  師  阿部 麻里 (わくわくキッズ)
■準備物

風船(予備含め3つ)、クエン酸・重曹(各スプーン3杯分)、お酢、水、空のペットボトル(2本)、プラカップ(1こ)、ろうと、スプーン(2本)

※水は、水道水でかまいません。(コップ1杯分程度)

※ろうとがない場合は厚紙を丸めておいてください(風船に薬剤を入れる際に使用します)

■内  容

風船に針をさしたら…風船は、ふつう割れてしまいます。けれど、今回はなんと割れないだけでなく逆に膨らんでしまう!? そんな不思議な風船の仕組みを、実験をしながら解き明かします。※お子さんは針は使いません。
■申し込み期限
・材料郵送あり   11月21日17:00

・材料郵送なし   11月27日17:00

■お申込み方法
(1)必要事項を下記のメールアドレスまでお送りください。
【info@waku2kids.jp】
【タイトル】 11月イベント参加希望
① お名前 ②学年 ③ご連絡先(お電話番号・メールアドレス) ④材料郵送の有無(必要な場合はご住所)
(2)受付完了メールと共に、参加費のお振込先・当日のzoomのIDをお送りします。
(3)当日までに、材料をご用意ください。
(4)実施時刻の10分前を目安に、zoomに入室、活動にご参加いただきます。

 

■キャンセルポリシー

・前日まで:手数料を抜いた1,000円返金

・当日:全額頂戴します

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皆さんのご参加、お待ちしています。

12月のオンラインは12月19日(日)を予定しています。

★インタビュー企画「こどもあつめ」vol.4 的川 泰宣さん

約1年ぶりとなりました「こどもあつめ」。
こちらは、ゲストの「こども時代」についてインタビューしているこの企画、
今回は、宇宙好き、科学館に行くのが好き!そんな方必見!

JAXAの名誉教授であり、はまぎん こども宇宙科学館の館長でもある
的川 泰宣(まとがわ やすのり)さんです!

それでは、どうぞ!
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的川 泰宣 さん MATOGAWA YASUNORI
はまぎん こども宇宙科学館 館長/宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授

《プロフィール》
はまぎん こども宇宙科学館館長、宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授。ミューロケットの改良、数々の科学衛星の誕生に活躍し、1980年代には、ハレー彗星探査計画に中心的なメンバーとして尽力。2005年には、JAXA宇宙教育センターを先導して設立、初代センター長となる。日本の宇宙活動の「語り部」であり、「宇宙教育の父」とも呼ばれる。

Q. 小さい頃は、どんなお子さんでしたか?
生まれたのが昭和17年1942年で、ちょうど戦艦大和が呉の街で建造中だったんです。僕はちょうど1歳ぐらいで、お袋からは「お前は戦艦大和を見ながら育った」っていつも聞いてました。
そういう背景で育ったもんだから、太平洋戦争のころの影響はだいぶ受けていると思います。
呉には最初、主にオーストラリアの兵隊が駐在していて、もう外人だらけだった。アメリカの子どもたちと、言葉はお互いに分からないのに仲よく遊んでたりしていました。だけど、(彼らは)缶蹴りだとか、そういうのを知らないわけです。考えてみれば当たり前なんだけど、「あいつら何にも知らない!」って思ったことをよく覚えています。「外国ったって、全然大したことない」って。

Q. 戦時中に幼少期を過ごされたということで、ご自身はどんな影響を受けましたか。
原爆が落ちた日には僕は広島の田舎に疎開してたので、原爆のことはよく知らないんですけど、お袋から聞いて、相当酷いことがあったということは知っていた。
原爆が落ちてしばらくしてから、兄貴が自転車で広島に連れていってくれて、太田川の岸辺で原爆の遺体がまだ片付いてない状態で、遺体が折り重なってる岸辺を見ました。で、しばらく呉の町に帰ってきてから、僕は覚えてないけど毎晩、うなされていたと。ショックだったんでしょうね。怖かったって感じのイメージです。
そういう経験から、やはり、平和とかに対する気持ちが友達に比べると異常に強かった、と小学校に入ってからよく感じましたね。

Q. はまぎん宇宙科学館の館長さんの挨拶の中で「人は人生において最も変わるのが平均して10歳頃であると言われている」と書かれていました。その10歳のころに、きっかけになった出来事はありますか?
きっかけ、というのはこれといってないんですけどね、小さいころ漠然と自分はどんな人間になるのか、ということを感じていました。自分自身は本当に世界中の人が幸せに生きるってことが一番大切なことだっていうのが、小学校の途中から湧き上がってきましたね。

Q. 的川さんの平和に対する思いを強く感じるのですが、ご自身の原体験がその考えに繋がっているのですか?
ちゃんと繋がっていると思います。
3歳のころに呉の町は空襲がありましたので、全部焼け野原になっちゃったんですけど、(自分は)お袋の背中に背負われて呉の広い通りを、背中で揺られながら走っていたのを覚えてますね。周りが熱かったことも。
当時、図書館が燃えたんですけど、その光景を覚えてて、そういうのは人生の中でたびたび思い出すシーンなんです。そういう事があったために戦争と平和についての思いがあって、平和志向みたいな考えになりましたね。「平和っていうのは待っててやってくるものではない、何か自分がやらなければいけない」という気持ちに繋がっていきました。
高校は広島に出たんですけど、生徒会みたいな活動を始めて、それはもうはっきりと平和運動に参加する(会)。その流れで、大学に入ってからも学生運動をずいぶんやりました。
今考えると、あのころ勉強してれば今、もっとまともな人間になってたんだろうけども・・・。

悔やんではいないけれど、その頃に作られた世界観や世界の見方は、大変大事なものだったと思っています。
「自分の一生の中に、社会のために生きる人間でないと、自分の価値として我慢が出来ない」というのが、どこかに色濃くあるのは、小さいころにできたものなんだと思っています。

Q.お父様が軍人さんだったとお聞きしましたが、印象的な出来事はありますか。
親父は海軍にいました。当時、アメリカ兵とかオーストラリア兵はジープで町の中を乗り回して、子ども達にチョコレートとかガムとか投げ与えるんです。そうしたら、みすぼらしいけれども、呉の子どもたちはそれを腹ばいになって拾って食べるわけです。そうした光景をよく覚えてますけど、なんかこう…いま思い出すとやりきれない気持ちですけど。うちはね、(親に)言われたわけじゃないんだけど、そういう事をやっちゃいけない雰囲気があって、僕は長いことやらなかったんですよ。
ところが、周りの子は本当に美味しそうに食べるし、美味しいものなんだろうと思っていました。
僕はある日、一回ぐらい良いだろうと思ってチョコレートを拾って食べたら、(チョコレートが)美味しいんですよね。で、びっくりしちゃって、ポケットの中に食べきれないくらい入れて帰りました。
あとでうちの中で、そーっと食べていたら親父に見つかって。 「何してんだ!」って言われておずおずとチョコレート出して、「食べる?」って聞いたら、バチーンってたたかれてびっくりしましたよ。
親父は大変穏やかな人で、アフターファイブで能をやるような人だったし、本当に驚きました。
親父に「ねぇ、チョコレートどうして食べちゃいけないの?」って聞いたんです。そしたら、親父が「それは日本人の矜持(きょうじ)だ」って言ったんですよ。その時は小学5年生くらいだったかな、矜持って言葉、分からないですよね。「矜持?」って聞き返したかったんだけど、怖い顔してて聞けなくてね。
それで、そのあとお袋に「ねえ、矜持って何?」って聞いたら「なんでそんなこと聞いてくるの?」って。
「こういうわけで…親父にチョコレート見つかって」って言ったら、お袋は説明しなかったんだけど、「あのね、”きょうじ”っていろんな言葉があるんだよ。お父さんが言ったのは、意味があると思うけど」、って言って、奥へ行って国語辞典持ってきたんです。母は家庭科の先生だったんですよね、さすが教育者だと思う。
それで、矜持って言葉を大変よく覚えています。おそらく小学校の4、5年で「矜持」って漢字をかける人は、なかなかいないと思うんですけど。

Q.小学生のときの印象的だった思い出はありますか。
小学5年生のとき、ヤクザの息子をそうとは知らずに殴り飛ばしたことがあってね。明くる日、授業中に担任の先生が教室に入ってきて職員室に呼ばれました。
行ったらヤクザが座ってるんですよ。なんでいるのかな、って思ったら、はっとね、昨日泣かしたやつのことを思い出して、これはひょっとしたら、困ったことになったと。
「昨日は俺の息子を可愛がってくれたそうだな」と凄みのある声で言われたんで、しどろもどろになって、元々向こう(の子)が悪いってことは確かなんですけど、懸命に理由を言いました。僕が言い終わったところで立ち上がったから「おっと、やられるかな」と思ったけど「邪魔したな」と言って出ていきました。
そういう事があったから、立派なヤクザっていうかね(陰ではいろいろやってたんでしょうけど)当時のヤクザってのは筋が通ってる。そういうところは、その時感じましたね。

Q.給食についての思い出はありますか?
中学に至るまで、脱脂粉乳はとにかくみんな嫌いでね。ただ、窓際の席にいると(窓の外に)捨てられるんですよ!先生も美味くないって知ってるから、それほどきつく叱らない。窓際って言っても3階建てで、みんな捨てるから、建物の傍の芝生が全部枯れるんです。先生が「お前らが何か捨てるものがあるために、芝生が育たないんだよね」って皮肉いうわけですよ。見事に本当に生えていないんです、そこだけ。

Q.好きだった教科・苦手だった教科を教えてください。
あのね、僕は少し不思議な子で嫌いな科目は一切ないです。
数学は他の科目に比べると大好きだったと思います。(数学は)他の科目に比べると、本当に覚えることが少ない。順序立ててやればいいわけで、こんな楽な科目はないと思っていました。
苦手だったわけではないけど、地理は行ったことがない所のことを覚えるので変だなぁと思っていました。
でも、教え方が違えば僕はきっと大好きになった可能性があると思ってるんですよ。
大事か大事じゃないかっていうのは、最初に接する人がどういう風に教えてくれるかっていうことに関係があるんだなっていう事がよくわかった。
宇宙の話でもサイエンスっていう全体の話でも、子供にどのように伝えるかってことで響き方が違うので、最初の出会いがものすごく大事だなということを感じました。

Q.お兄さんの授業を一緒に受けに行ったとか・・・?
小学校4・5年生でしょうか、兄貴の高校の授業ってどういうことをするのか見たくてね、ついて行ったことがあるんです。小学生が高校生の授業にいるって変じゃないですか、今だったら。先生は不思議に思っていたみたいだけど、「しょうがねえなぁ」って。
その日はちょうど理科の実験がある日でした。チューブの中で石と葉っぱを真空の中で落とす実験だったんです。見ていたら、石と葉っぱが一緒に落ちてきたんです!そのとき、もうびっくりしちゃってね。耳学問も何もないものですから、本当にびっくりして叫んだんです。3、40人高校生がいる中で僕が叫んだのを先生が見て、「お前らこれ感動しないか、このちびが一番感動しているじゃないか」って。そのことがすごい印象に残っていて、もう「ドキーン」としたような感動でした。
あらかじめ知ってる知識っていうのは本当ダメで、子どもの頃に接する自然科学の事柄っていうのは、いつも新鮮な驚きがある。そのような状態で受け止めないと、その後の自分の成長につながっていかないっていうのは、非常に確かな事だと思いますね。
「サイエンスコミュニケーション」という話がありますが、知識をつけるって言うことはあまり大したことではなくて、感動教えるって言うのかな。

Q.宇宙に関しては、子どもの頃から興味があったのですか?
大学に入ってからできた友達の中で、一級下に海部(かいふ)君って言う天文学の会長だった友達がいるんです。彼は、小さい頃、赤色白色って言う星の違いを考えていたら寝られなくなるって言う状態で、大学の専門を決める時には一も二もなく天文学を選びました。
僕は星を見ながら、あまりそういうことを疑問に思わなかった。
僕は星への距離が違うっていうのを耳にした時にびっくりしてね。シリウスとベテルギウスってものすごい違うところにあるんだと。ここから旅行したとして、シリウスまで20年ぐらい。そこからさらに何百年も行かないとベテルギウスに会えないとかそういうことを考えると、そのままずっと宇宙の間を縫って冒険していくみたいなそういうイメージがあって、宇宙とはなんか冒険みたいなもので繋がっていると思ったんですよ。
海部くんと2人で観望会行って一緒に見てると、星の好きな子が二人で見てるって状態なんだけど、子供を見ても「星好きな子」と(ひとくくりに)一緒にしちゃいけないね。
そういう、微妙なところの(興味の)ひだみたいなものは、小さい頃のはなかなか自分では(言葉に)できない。だから、そういう時に家族や教師が、どこかで気づいてあげるっていうことがあればその子はすごく伸びるんじゃないかなと感じます。

Q.おうちの方から、子供の時に受けた影響はありますか?
親父から得たより、お袋から得たもののほうが大きい。
男の子っていうのはお母さんのほうが大好きなのね。家庭科の先生をやっていて、家庭料理で一番好きだったのはカレーライスですね。本当に好きだった。だから誕生日と言うと、お袋が作ってくれるカレーライスが楽しみでした。

Q.失敗したとき、壁にぶつかったときはどのように解決していきましたか。
(自分は)あまり深刻にならないタイプなのですが…テニスをやっていたときは、壁を乗り越える時の力っていうのはみんなで生み出していかないと駄目だと思いました。リーダーがしっかりしているってもちろん要件としては大事だけど、その力が響いていてみんなの力になっていかないと結局は総合力になっていかない。
そういうメカニズムみたいなものは、スポーツの中から感じ取ったと思います。
「団体戦」て言葉の規模を広げていくと、最も大きな団体戦がおそらく平和をつくることなんですよね。
世界中の人の力で、みんなが幸せにできる社会を創るっていうのが多分人類が持ってる一番大きな団体戦だと思うんです。そういうことが今の時代・世の中になると特に求められていると感じがします。

宇宙なんかもそうですけど、本当の意味で宇宙でやってる仕事というのは、全ての人に役立つという風にできないと、それは本当の団体戦に勝ったことにならないと思います。
みんなのプロジェクトとして立ち上げる場合は、発展途上国あるいは戦火の中にある国も含めて地球上のみんなが参加できるプロジェクトとして、みんなが協力して、戦争なんかやってられないよねっていうくらい動機づけのしっかりしたものを作って、初めて宇宙が世界に貢献することになるんじゃないかなと思います。
困難があった時に乗り越える力っていうのが、自分の力だけでなんとかやろうっていう意思の力とかではなくて、どんな人にも頼って、みんなの力で乗り越えていこうっていう、そういう気持ちが大事なんだろうなって思います。

テニスから学んだ団体戦の喜びとか意義とかそういうものは、すごく自分の仕事の動機付けにもなって。
大きな目標を掲げてやるということももちろん大事かもしれないけれど、そうではなくて、テニスコートでその日何をやるかなんですよね。
「その日に何をやるか」
これから1時間何をやるか、非常に細かい身近な目標にしっかり重点を置いて、いつもいつも重点を置きながら伸びていく。そういう心がけがないと人間はたゆみなく進歩することができないという感じがありました。

Q.座右の銘をおしえてください
私のお師匠さんが糸川英夫って人で、本当に天衣無縫な、生きたいように生きた人なんです。
その方の「人生で最も大切なことは逆境と良き友である」っていう言葉ですかね。
座右の銘というのは特にないけれど、一番思いだす言葉はあの言葉ですね。
今は、本当にそうだと思って、非常に胸に残っています。

・・・・今の子ども達にメッセージをお願いします・・・・
自分の関心があるものを、早く発見して欲しいっていうことですかね。それはあまりお金儲けようとか出世しようとかではなく、自分の心の中に本当に何が一番好きなのかっていうのを抱きしめて、それで進路を選ぶべきですね。
高校から大学に行く時にあんまり嫌いな科目がなかったので、理科系か文化系かすら決まらない状態で、親父は法学部がいいんじゃないかって言ったんですよ。僕は弁護士もそう悪くはないかなという気はしたんですけれども、親父に理由を聞いたら「潰しがきく」って言ったんです。それで、僕は法学部はやめたんですよ。そういう生き方はしたくないなって。
お袋に聞いたら、医学部がいいって。悪くないですよね、お医者さんって絶対に役に立つ仕事だから。念のためその動機を聞いたらね、「生活が安定する」って。それで医学部もやめようと思ったんです。二人とも(正直に理由を)言わなきゃいいのに…(笑) 最後は理工系ブームもあって、理科系に進みました。
やっぱり大事なことは、本当に自分の好きなものが見つかるまでは人の言った動機で決めちゃだめだ、ということです。うまくいかなかった時に人のせいになっちゃうじゃないですか。

一生懸命、自分の好きなものを早く見つけるということが大事ではありますが、選択肢を増やすためにはいろんなことをして遊ばないと駄目ですね。
勉強ばっかりしてると見つからないですよ、知識ばっかり増えても感動はないです。
スポーツもそうですけれど、いろんなことにチャレンジして自分の大好きなものを掴みとれば、後悔なく生きられるんじゃないかと思います。

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一番の好きを抱きしめて…素敵な言葉ですね。

的川さん、ありがとうございました。

文:あべまり

 

【6/27】小学生向けオンラインイベント「塩のサイエンス~スーパーボールを作ろう~」

久しぶりの投稿は、オンラインイベントのお知らせです😊

科学館やアフタースクールでも人気のこちらのプログラムが、お家でも体験できちゃう!

よろしければどうぞ🌸

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わくわくキッズオンラインイベント
「塩のサイエンス!スーパーボールを作ろう」
■日 時   6月27日(日)  13:30~14:30
■実 施   zoom (初めての方も大歓迎!)
■対 象   年長さん~小学生
■参加費   1,500円 (材料郵送希望の場合は2,500円)
■定員    10組  (兄弟参加OK) ※先着順
■講  師  阿部 麻里 (わくわくキッズ)
■準備物  塩(40グラム・約大さじ3杯分)・割りばし・洗濯のり(大さじ3杯分程度・「PVA」と記載してあるもの)・プラカップ(4つ)絵の具(お好きな色)・ペットボトルに入った水・キッチンペーパー

■内  容
塩は、私たちにとって身近な調味料です。今回は、その塩を観察してみたり、絵の具を使って実験をしたりします。どんな塩の力にふれられるかは、お楽しみ!最後は、洗濯のりも使ってオリジナルのスーパーボールを作ります。
■申し込み期限
・材料郵送なし(ご家庭でご準備いただく) 6月26日14:00
・材料郵送あり              6月20日14:00
■お申込み方法
(1)必要事項を下記のメールアドレスまでお送りください。
【info@waku2kids.jp】
【タイトル】 5月イベント参加希望
① お名前 ②学年 ③ご連絡先(お電話番号・メールアドレス) ④材料郵送の有無(必要な場合はご住所)
(2)受付完了メールと共に、参加費のお振込先・当日のzoomのIDをお送りします。
(3)当日までに、材料をご用意ください。
(4)実施時刻の10分前を目安に、zoomに入室、活動にご参加いただきます。

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皆さんのご参加、お待ちしています。

★「こどもあつめ」vol.3平岩国泰さん★

こんにちは。

わくわくキッズのあべまりです

さまざまな分野の方の「子ども時代」を聞いちゃおう!という企画「こどもあつめ」

第3回目のゲストは、放課後NPOアフタースクールの代表理事を務め、2019年より新渡戸文化学園の理事長に就任された 平岩国泰(ひらいわ くにやす)さんです!

今回は新型コロナウイルスの感染予防のため、zoomでオンラインインタビューとなりました。

ご自身の画面背景をわくわくキッズのロゴにしてくださるなど、嬉しいサプライズ満載のインタビューとなりました。

「自分と会ったことで、相手の方に良いことがあったり、喜んでくれたら…」というお言葉通り、温かなお人柄の平岩さん。

それでは、平岩さんの【こども時代】をのぞいてみましょう!

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平岩 国泰(ひらいわ くにやす)さん

放課後NPOアフタースクール代表理事/新渡戸文化学園理事長

《プロフィール》

1974年東京都生まれ。1996年慶應義塾大学経済学部卒業。

長女の誕生をきっかけに、放課後NPOアフタースクールを起業し、21校のアフタースクールを開校。2019年新渡戸文化学園理事長就任。日本のモデルとなる未来の学校づくりに挑む。

 

Q.小学生のときはどんなお子さんでしたか?

野球が好きで、公園で毎日のようにやっていました。僕は兄がいるんですけれど、(その影響か)高学年になってきたら周りの友達が子どもに見えてきましたね。いわゆる‘小学生男子が汚いこと言って笑う’みたいなのが、あんまり面白くなくなってきたことが早かったことを覚えています。

 

Q.今でも忘れられないエピソードを教えてください。

小学校が火事になったことがあるんです。嘘みたいな話なんですけれど、それがちょうど火災の避難訓練の日でした。僕は図工室にいて、(外を見ると)煙がモクモク出てきて、僕らは当然訓練だと思いました。でも、先生が真顔になって「君たち、避難だ!」って言うわけですよ。「いやいや先生、訓練なんだから…」と思いましたが、先生のテンションがちょっと(いつもと)違っていたんです。それで「あれ?」って。(笑)

給食室からのボヤで、もちろん大火事にはならずに済みましたが、本気で体育館に避難しました。

後から新聞の取材がきて、6年生の代表として、なぜか僕が(インタビューに)選ばれたんです。それで、新聞記者の人に「煙がでた時、どう思いましたか?」と聞かれたんです。なんて答えたらいいいかなって考えて、

「煙を見て、あれは本物(の煙)だと思いました」と、実際に思っていた事と逆のことを言っちゃったんです(笑)

その記事は夕刊に載りました。「6年生の平岩君は冷静に答えていた」なんて、記事に書いてありました(笑)。

 

Q.給食についての思いではありますか?

作ってくださった方にはとても失礼なんですが…、あんまりいい思い出がなくて。

6年間、1度も「ごはん」が出なかったんですよ。1年中毎日パンでした。時代だと思うんですが…。

聞くと、同じ区内にはごはんが出てる学校もあったみたいです。給食で、苦手になったものが少しあって…。

それは、タケノコとマーガリン。タケノコは、夏の暑い時にどろどろの五目炒めに入っていて、えぐみもありました。それでタケノコ全般が苦手になり、今でも春先になるとおびえて…逃げ回っています(笑)

それから、毎日パンばかりなのでマーガリンが必ずついてきました。それが嫌で、道具箱に隠すんです。だんだん溜まってきて、(道具箱に)入らなくなってきたところで、仕方ないから持ち帰ります。きつかったですね(笑)

好きな給食は、しいていうならカレーシチューでした。ライスは出ないのでカレーもシチューで…。

↑オンラインでインタビュー中の平岩さん。なんと背景がわくわくキッズのロゴに!

Q.好きだった教科・苦手だった教科を教えてください。

図工と体育は好きでした。図工は、消防車の写生の絵が6年連続で代表に選ばれました。5年生の時が一番よくて、東京都で特選をもらいました。身体を動かすことが好きだったので、リレーの選手にもなりました。6年生の時にはアンカーで1位でテープを切りました。思えばその時以来運動も勉強もトップになったことはなかったかな。人生のピークですね(笑)。

苦手はあまりなかったのですが…音楽でしょうか。人前で歌うのが恥ずかしかったし、才能もなかったので隅っこの方でジッと静かにしてました。怒られた記憶はないので、最低限やってたのかもしれません。

Q.印象に残ってる先生はいますか?

図工の先生です。2年生のとき、その先生に褒めてもらった言葉を、いまだに忘れていないんです。

粘土をやった後の片付けで、僕はお皿を水道で洗いました。棚に戻した時に、先生が「みんな、平岩君のお皿を見なさい。使う前よりきれいにして、戻しています。」って言ってくれたんです。ぼくはその時とても嬉しかったのと、すごく心にストンと落ちる感覚がありました。なんでかな、と思うと、自分がそのお皿に関わったことで、そのお皿が綺麗になった。これが、今でも自分の人生観になってるんです。

…ちょっとすみません、なんか良い話してる感じになっちゃってますけど(笑)

要は、自分が生きたことで世の中が良くなる、自分と会ったことで相手の方に少しでも良いことがあった・喜んでくれた、そういう感覚です。図工の先生がそうやって言葉で表現してくれたのは、大きかったです。アフタースクールでも、子ども達の良いところを一緒に見つけて、言葉で表現して伝えてあげるということが、大切だと思っています。

 

Q.おうちの方から、子どもの時に受けた影響はありますか?

年取って父に似てきているなぁと感じます。父は、人が喜ぶことが好きなんです。昔は「買い物おじさん」と呼ばれていて、親戚とどこか行くと、かならず何か買ってあげるような人でした。私がほしいものをコッソリ調べて、サプライズで買ってきてくれた日もありました。母は「男らしさ」を重視する人でした。両親ともに小さな会社を経営する一族で、男性が多い家系で育ったので「男は仕事で戦うものだ」という考えがありました。「男らしく」というのは、母からよく言われたように思います。ボランティアマインドが強いのも母の特徴でした。

 

Q.失敗したとき、壁にぶつかったときはどのように解決していきましたか。

とにかく「次の手を探す」ことだと思います。起きたことはもう変わらないので、反射的に「で、どうする?」と考えるようにしています。それで、次のアイディアを考え出すと、もう気持ちが次にいきます。

そうはいっても、すぐに切り替えられない時は、「長い目で見た時にどうかな」ということも、考えます。これはうちの親がよく言っていたことです。「今日一日は大変だったかもしれないけれど、長い目で見てみたら、今日の嫌なことなんて絶対忘れるんだろうな」って。10年たっても覚えているほどの嫌なことや失敗って、ほとんどないんですよね。その日、そのタイミングは最悪なんだけど、10年もすればほぼ忘れます。嫌な気持ちを置いてきぼりにして、自分は次に行く。「長い目で見た時に、たいしたことないじゃん。で、どうする?」って考えるのが、いつもの僕の思考パターンです。やっているうちに習慣になるので、鍛えられる思考法だと思います。

 

Q.今の子ども達にメッセージをお願いします。

【自分の「良いところ」の面積をひろげよう】

短所を裏返せば、必ず長所であると思うんです。苦手なところは、良いところと常に共生しています。苦手なことを無理に直そうとせずに良いところを広げていけば、苦手なところや弱いところはなくならないけどかなり目立たなくなってきます。「自分の良いところってなんだろう?」って、そこを考えて、思いきり(外に)だしていく。自分の良いところの面積を広げていって、誰かを喜ばせてあげてほしいです。

 

【大人って楽しい!】

大人って楽しいんだなって思うんです。僕は、今子どもに戻りたいかって聞かれたら、そうでもないです。

やり直したいことはいくつかありますけどね(笑)。大人って、野球でいうとグラウンドに出て選手になれていることだと思います。子どもの時は観客席で見ていたけど、大人になると社会の中でプレーヤーになれるイメージです。実際に自分たちが動くことで喜んでくれる人がいたり、これは「上手くいくかも?」と思って(やってみて)成功したり失敗したり。レポート用紙の上ではなくて、それが実際に目の前で起きているので、それが一番おもしろいと思います。

 

【好きなフィールドで、毎日フルスイングする】

社会に出て、自分の好きなフィールドを見つけて、プレーヤーとして毎日フルスイングする。そんな人生を描いてもらいたいです。苦手なコースを(狙って)打ちにいってもあまり良い結果は出ないので、自分の得意なコースを見つけて、そこを狙ってフルスイングする。20代のときは、自分を前後左右に思いきり振ってみるのがいいと思います。つまり、色んなフィールドに行ってみたり、頼まれた仕事を全部やってみたり、すごい上・下の世代と付き合ってみたりすると、自分の得意なゾーンが見えてくるんですよね。それを見極めて、30、40代を過ごしてほしいと思います。

自分のやりたいなと思うフィールドは子どもたちのこと、得意なコースは僕にとっては新しいものをつくることです。「教育」×「新しいこと」で今の自分の仕事になりました。

※フルスイング…野球のバットを力いっぱい振ること

【最後に…】

夢とか自分のやりたいことって、どんどん変わっていくと思うんです。探して見つかっても、また変わるかもしれない。小学生の時に見つかる子もいるかもしれないけれど、多くは中学・高校・大学…と大人になっても探していきます。

だから、あまり小学生に夢を聞きまわっても、それはその時の夢でしかないし、その時点で見えてなくても全然良いと思います。

好奇心や経験の幅が多い方が、(好きなことが)見つかったり出会えたりするチャンスは多いと思います。迷ったらやってみる、行ってみる、というのはおすすめします。今は自信がなくても、長い時間をかけて(自信を)つけていくこともできる。好きなものを見つけ、楽しい仲間がいることが一番いいと思います、人生は。

 

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平岩さん、ありがとうございました。

インタビュー中も、話の節々にアフタースクールの子ども達やスタッフの方々、学校の先生方への思いやりや、仕事に対する熱い思いをお聞きすることができました。

このような教育・思いが、まさに「これからの日本のモデル」となっていくのだと感じます。

あらためて、ありがとうございました。

文:あべまり

 

 

わくわくプレスクールはじめました‼

こんにちは、わくわくキッズのあべまりです

今日から約3週間、オンラインでのプレスクールをはじめます。

マンツーマンでお子さんと講師で進めていきます。

首都圏での緊急事態宣言も解除されないまま、休校期間も続いています。

自宅学習のスパイスに、学習意欲の維持に、生活リズムの保持に…

ぜひご活用ください!

ご予約は、実施日の前日までにお願いします。

プレスクールのご案内

★こどもあつめvol.2 岡崎弘幸さん★

みなさん、こんにちは

前回から少し間が空いてしまいましたが、「こどもあつめ」第2弾です

今回のゲストは中央大学附属中高等学校の教諭でもあり、ムササビの専門家でもある、

岡崎 弘幸(おかざき ひろゆき)さんです!!

研究室でお話を伺いましたが、クラシック音楽を流してくださったり終始楽しいお話をしてくださったり、魅力の幅がつきない方です。

もちろん子ども時代も‥かなり素敵!(笑)

(失礼ながら、内容を文字に起こしながら何回か吹き出しました)

私は尊敬をこめて「むさびー」と呼ばせていただいています。

それでは、早速内容の方をどうぞ!

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岡崎 弘幸(おかざき ひろゆき)さん

中央大学附属中高等学校 教諭

《プロフィール》   

1958年東京生まれ。大学時代よりムササビの研究を始め高尾山へは通算1000回以上登る。生徒たちからはムササビ先生と呼ばれている。元NHK高校講座生物講師。著書は「ムササビに会いたい!」(晶文社2004)など多数。

Q.小学生時代はどのようなお子さんでしたか?

元気でした(笑)いきものが大好きで、活発なんだけど、教室ではおとなしい。だいたい家にあまりいない外で遊んでました。ガキ大将的だったんです。(笑)

Q.何かエピソードがあったら教えてください。

近所の子たちを集めて、学校のようなものをやってましたね。イカダを作って、それで流されちゃって、助けられたり(笑)雑木林がいっぱいあったから、ターザンやって、川を飛び越えて降りる遊びとかね。基地つくって、遊んだりもしました。昔の子は、強いですよね。けがしてもお母さんに隠したりしていました。

Q.生き物が好きだったというのは、何か飼っていたのですか?

 鳥をたくさん飼っててね。ジュウシマツ、ベニスズメ、カナリア、ニワトリ、ウズラも飼ってて…飼い方が上手いと大きくなっちゃうんですよ。他にも、ハト、イモリ、熱帯魚…妹と4畳半の部屋だったんだけど、かごを積み重ねてね。お世話に毎日が大変でした。父親が生き物好きだったんです。

Q.子どもの頃と今のご自身で「変わった」と思われることはありますか?

病弱だったんです。喘息で、一回こじらせると学校休むくらい重傷でした。今それが全く無いのは、中1の時におじさんに一人旅に行かされたからでしょう。中1で一人旅ですよ。怖くて怖くてしょうがないんだけど、(東京に住んでいたのですが)おばあさんが仙台にいるから、もっと北に行って来いって(笑)勝手に電車に乗せられて、旅行記をつけろとか、お金はこれだけ持っていけとか、宿の予約はしてはいけないとかね。予約をすると甘えるから、行ってからさがせって宿のリストをもらいました。電車は、色んな人が座るから自由席で行けって(笑)それから自分の人生がまったく変わりました。岩手県の宮古に行ったんです。宿は、「今日泊まりたいんですけど」って言って当時100円で泊まらせてもらいました。おじから言われて、3日間帰っちゃいけなかったので、そこに2日間泊まりました。龍泉洞という洞窟に行く途中の電車で、目の前に座った、超長い髪のパンタロンを履いたお兄さんと話しました。当時、自分は中1でそのお兄さんは大学生で。家が近かったものだから(話が合って)、そのあと一緒に龍泉洞をまわってね。そのお兄さんとは何十年もずっと手紙をやり取りしていましたね。おじは母親から「なんで行かせたんだ」って、大変だったみたいです。それから全く喘息はでないですね。一回(旅に)行くと変わるんです。だから、今もいろんな人に旅したほうがいいよって言います。

Q.他にはどんな遊びをしたのですか?

 今ではしない遊びだと思うんだけど、人の家の塀の上をつたっていく遊びかな。猫のように。道路で行けばいいのに、わざと塀の上を歩いていくんですよね(笑)Aさんの家は、通らせてくれて、怒られないで済む。だけど、Bさんの家は怒られるとかね。すごい怖いおじさんで、歩いていくと怒られるので、いかに早く渡るかが大事。「こらー」っていきなり怒鳴られて塀から落ちたりね。怒られたらおわりだった。「みか」っていう犬がいる家は、落ちたら噛まれるの。人の家の屋根をつたって怒られたりもしたね。野良猫みたいな遊びでした。

Q.何か習い事はしていたのですか

そろばん塾が流行ってて、上級生になると習っている子が多かったですね。僕はそろばん嫌いだったんです。そろばんは裏返しにしてシューッて走る車として乗って怒られたり。父親が絵を描くので、絵を習いに行ってましたね。風景と友達の顔などを描きました。そこの先生はいい先生でした。僕たちが驚いたのは、空の色ね。女の先生が「(空は青だけでなくて)他の色に塗っていいのよ」って、ピンクっぽく塗っていてね。それを面白いと思ったのを覚えている。

Q.生き物好きは、お父さんから受ける影響は大きいですかか?

 生き物好きは、代々伝わる感じですね。生き物は、たとえば親が虫を見てびっくりするからこどももびっくりする。小さい子でもね、はじめは「うわー、こわーい」ってなっているのは、おうちの人が言っているんだろうなぁって思う。だから「全然怖くないよ、ほらこんなに可愛いから~」って自分が撫でてあげる。はじめは触らなくても、こどもはだんだん触るんですよ。ちょっとでも触ると自信になるんです。「お母さんたちもきゃーきゃー言わない(笑)」。こどもたちの好奇心はものすごいですよ。その好奇心は大事にしてあげたい。

Q.座右の銘は?

色々あるんですけど、一番好きな言葉は、大学の時友人から聞いたものなのですが、ある天文学者の言葉です。「すい星をさがしたかったらやめなさい、見つからないかもしれないから。すい星が見つからなくてもいいなら探しなさい。見つかるかもしれないから。」というものです。深く、哲学的なその言葉が好きです。ぼくもそういう生き方にしたいなって。今のムササビの研究も、その言葉を胸に留めてきながら「何か発見しようと思ってやってちゃだめだよ」って学生に言います。挫折した時に嫌になっちゃう。研究って偶然みつけることが多いんです。やり続けて、偶然ひらめくこともあるしね。動物を研究するにもかなり植物を調べなくちゃいけないんです。だって研究に「食べ物:葉っぱ」とか書けないでしょ。(笑)見えないことを追求していくと、新しいことがわかるから、続けてやりたくなる。

Q. 最後に今の「こども」たちにメッセージをお願いします。

最近、自分の親を結構気にしてる子が多いように感じます。うちの学校の場合かな?(笑)親から言われた事だけをやるのではなく、「何でも疑問に思ったら進んで調べてごらんなさい」と伝えたいです。まずは不思議に思うことが大事です。

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むさびー、ありがとうございました

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【告知】3月27・28日かぞくみらいフェスに出展します

【告知!】
3月27・28日に東京国際フォーラムで開催される「かぞくみらいフェス」に出展します!
1日2回、各回40分のショートスタイルのワークショップです。
いつもは小学1年生からが対象ですが、今回は就学前の小さなお子さんにも参加してもらえる形態になっています
この機会にぜひご参加ください😊
事前予約制ですので、ご興味ある方はお早めに!
その他にもさまざまな企業ブースやワークショップがあって楽しそうなお祭り2日間
「少し先の未来」を、一緒に体験してみませんか?

↓詳しい情報はコチラ
◆3月27日(水)
「消える?マジックボトル」
https://kazokumiraifes.jp/workshop/wakuwaku

◆3月28日(木)
「カラーアナライザー~光の謎~」
https://kazokumiraifes.jp/workshop/wakuwaku2

◆家族未来フェスについて
https://kazokumiraifes.jp/

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★こどもあつめvol.1 高木幹夫さん★

先日こちらで告知させていただいた「こどもあつめ」
記念すべき第1回目のゲストは日能研の高木幹夫代表です。
私はGEMS関係でご一緒することがあり、尊敬と愛をこめて
「みっきぃ」と呼べせていただいています。
今回は、新横浜の日能研オフィスでお話を伺うことができました。
木の香りでいっぱいな素敵なお部屋で、これまた次から次に
あふれる素敵なエピソードを聞かせていただきました✨

それでは、どうぞ‼

★こどもあつめ★
第1回目:高木 幹夫さん

《プロフィール》
1954年横浜生まれ。日能研菊名校出身。私学進学を目指す小学生のための学習塾、日能研代表。子ども自身がココロとアタマを動かす「アクティブな学び」への試みを続けている。
ジャパンGEMSセンター運営委員。

Q.小学生時代はどのようなお子さんでしたか?
今でもそうなんだけど…ADHD(笑)。よく動き回っていました。
本人は周囲に迷惑をかけたつもりはないけど、雑な子だったというのは覚えてます。

Q.何かエピソードがあったら教えてください。
あるとき通信簿で「図工1」をとったんです。5段階評価のね。(笑)だって人間が描けませんでしたからね。手も「〇」みたいに描いて。
それを見て「クラスに迷惑をかけてるんじゃないか」と親父が思ったのでしょう、それから毎日お袋が教室の後ろにいたんです、親父の指示で。(笑)僕は僕で、家に帰ってから毎日りんごの絵を描かされ…、嫌だったけど。それ以降自由に絵を描かなくなりました。今でも絵は苦手です。

Q子供のときに好きなことはなんでしたか?
昔だからねえ、家の前とかも舗装されてないんですよ。土があるところだったので、ザリガニやカエルなど、動物をとって・・・分解をする。(笑)ザリガニは何回か食べたね、剥いて、焼いて…でもきっと、食べ続けてないからそこまで美味しくなかったんでしょうね。カエルも皮はいだりね。低学年だったと思うんだけど、当時ウシガエルは食用だったら、友達と「食えるらしいぜ」なんて。魚も釣ったら食べるし。
子どもながらに「分解してみたい」というのは自然な欲求ですよね。
でも分解することを通して「元に戻せないんだ」ということを実感しました。授業でフナの解剖をするときは、その経験が役に立ちました。(笑)

Q.好きな給食や、それにまつわる思い出を聞かせてください。
それはもう、鯨カツ。一番のごちそうでしたね。僕は給食当番を勝手にやってたんです。給食のおばちゃん達とも仲良くってね。給食を配るとき、今日の一番人気のおかずはわざと残すの。みんなが嫌いな脱脂粉乳をお替りした子は、おかずもお替りできるシステムにしました。そういう意味じゃ知恵の回る子でした。
僕にとって、食べ物と知恵というのは結びついているんです。

Q.子どものときの将来の夢はなんでしたか?
電車の運転手さんかなぁ。
幼稚園時代に大好きだった先生の影響もあって、先生になりたいとも思いました。
受験のときには、色々考えましたね。一応、塾の家の子だから、
僕が落ちたら塾が潰れちゃうんじゃないか、とかね。(笑)

Q. 最後に今の「こども」たちにメッセージをお願いします。
「だまされるなよ」かな。ときどき子ども達にも言います。
だって、人生どれだけ騙されると思う?ある意味、僕たちはずっと騙され続けています。人なり、システムなりに。「こうです」と言われれば「そうなのかもしれない」と思わされてしまう。だまされないためには、当たり前の世界から一歩抜け出す、ことでしょうか。

・・・・ここからはブログのみの未公開内容です・・・

Q.苦手な食べ物はありましたか。
にんじん。(笑)だけどある日、家の料理すべてににんじんが入っていてね。にんじんが入っていない食べ物はないんだよ。すごいのは、それらの料理を僕だけではなく、家族みんなで食べていたということ。今の大人の目線にたつと、それはすごいことだよね。

Q.料理にまつわるエピソードは他にもありますか
おふくろが、「今日何食べたい?」と聞いて、家族それぞれ好きなものを作ってくれました。一人ひとり別々に。(笑)本当に、今思うとすごいことですね。生姜焼きとか、卵焼きがあったり。おふくろは、いわゆる料理上手という印象はないんだけどね(笑)
買い物にもついていったなぁ。魚屋に行ったときは、貝を混ぜりもした。なんと、シジミとアサリを混ぜたことがあったんだそうだ(笑)
そういういたずらを店先で結構やっていたらしい。
うん、僕はそういう普通の子でした(笑)

Q.「先生」との思い出はありますか
幼稚園のころにすごく好きな先生がいてね。子供心に見るとおおがらな先生で、良く面倒みてくれてね、肯定的な形でつきあったくれたんだよね。ほら、僕はわりと怒られるタイプだったから(笑)
あとは、小学校のときに音楽の授業で「お前は人の迷惑になるから歌うな」と言われたね。悲しかったなあ。僕は素直ないい子だったから、先生が言った通り大きな口で一生懸命歌ったんだけど…一番端の教室から一番奥の教室まで声が聞こえちゃってたみたいでね。
でも中学校2年のときに、歌の授業で褒めてくれた先生がいたんですよ。「この教室には歌が上手い子が2人いる。1人は音符通りに正確に歌う、もう一人はとても楽しく歌う。(笑)そうやって「とても楽しく歌う人」として褒めてくれて、それから歌うようになったね。

Q.現在の座右の銘を教えてください。
座右の銘とは違うかもしれないけど「頭ごなしなことはされたくない、したくない」というのはずっとあるかな。そうはいっても気づかずに僕も頭ごなしなことはしてると思うよ、きっと。
本人はしていないと思っているけど(笑)

最後はあべも一緒にパチリ。

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改めて、みっきぃの温かい笑顔にはご自身の魅力や
これまで関わってきた方々の温かみが詰まっているのだなぁと
思いました。

ご協力、ありがとうございました😊